coffeebreak2’s blog

おいしいコーヒーとの出会いを楽しみに、晴耕雨読と自転車走行日記

コロナ禍の75回目「終戦の日」

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75回目の終戦の日

今朝の中日春秋は、コロナ禍の日本人の義憤ウィルスについての話題でした。

マスクはずし、旅行などの県外への外出、帰省、差別、誹謗中傷・・・「自粛警察」といった言葉が聞かれるほど、今の日本は75年前と変わらない、似たような国民気質が焦点となっていました。

まったく同感で、新型コロナウィルスについて弱毒化やワクチン開発、後遺症などわからないことが山のようにあり、真偽は全く解明されていません。今後の見通しは謎だらけです。終戦の日、冷静な判断力の大切さに気付かされました。

中日春秋:中日新聞Web

ドイツ語で「義憤」を表現する「sittliche Entrustung」は「慥(たしか)に嘲(あざけり)を帯びている」と森鴎外が書いている。かの地では義憤はほめられたことではなかったらしい

▼道徳的憤怒や義憤にかられ「けしからん」と叫ぶ。そういうあなたにその資格はおありなのですかと問われてもなお叫ぶ。そんな面の皮の厚さへの皮肉がドイツ語の「義憤」にはあるという

▼日本人が義憤にさほどの気恥ずかしさを覚えぬ理由について鴎外は「日本人は誰も彼も道徳上の裁判官になる資格を有しているのであろう。実に国家の幸福である」と書いた。無論、痛烈な皮肉である

▼コロナの騒ぎで気掛かりなのは鴎外がたしなめた日本人の義憤が再び大きな顔をしだしていることか。外出はけしからん。マスクを外すのは許せん。帰省はまかりならん。自粛警察と書くのもためらうが、感染防止の道義をかさに着た義憤ウイルスの拡大が小心者には心配である

終戦記念日である。戦争中、勝利という「正義」のため、そこから外れたものは義憤と義挙の標的になった。ぜいたくは敵であり、戦争を批判するものは非国民である。義を疑う冷静さも、義憤をためらう情も失われていた

今年で七十五年。戦争は確かに遠くなった。が、戦争を許しかねない土壌はそれほど変わっていないのかもしれぬ。コロナ禍の八月十五日に震える。